イエティー同人ガッシャブルムⅡ峰登山隊 参照 岳人521号 鈴木執筆 山と渓谷1990/11由加執筆
隊長 遠藤晴行(33) 隊員 鈴木孝雄(52) 田辺治(29) 遠藤由加(24)ハイポータ、シェルパレス、完全無酸素隊。
BCにはサーダーとそのコックの二人だけ。
遠藤と由加はナンガパルパット、ガッシャブルムⅠ峰に続き三座目のカラコルム8000m峰、無酸素登頂。今度は無酸素登頂後、頂上からパラグライダーでBCまで滑空する、日本人初の記録を狙う計画。
鈴木は、五十代で日本人初の最高齢無酸素登頂を狙う。田辺は始めての8000mであったが、以後続けて九座も登る、日本を代表するスーパークライマーに成長するも、ダウラギリⅠ峰で逝く。
わが隊はアルパインスタイルを目指し、ポーターはBCキャンプまで頼んだだけで、これ以降は一切頼まずに、荷揚げ、ルート工作、キッチンも全て自分たちの手で行う。
C1は設営したがC2はデポしたのみ。C3、C4は背負って歩く。完全なアルパインスタイルにはならなかったが少しは近づいた。ワンダーのように登頂後続けてブロードピークに転進していれば、完全なアルパインスタイルの可能性もある。
●1990 6/12 成田出発~パキスタン カラチ経由 6/13イスラマバード入り。
●6/20までイスラマバードで登山手続き、日本大使館に挨拶、隊荷の税関手続きと食料等の買い物。田辺とタキシラに遺跡めぐりもする。
●6/21イスラマバード~空路スカルド「K2モーテルへ」。サーダーとキッチンボーイを二人雇う。食料、燃料、コンロ等を買い入れる。ポーターを58人雇う。6/22午後ジープ三台で出発ジョラ橋まで。
●6/23~6/30 バルトロ氷河の長いが楽しいキャラバンが始まる。
1990/6/13
パキスタン到着。バザールで食料調達をする遠藤由加。
空路スカルドに入り、食料、燃料を調達。サーダーとキッチンボーイを二人雇う。58人のポータを雇いガッシャブルムⅡ峰登山隊のキャラバン開始
浅いが急流で一人では歩けない。
モッコの渡しで川を渡る
バルトロ氷河のキャラバンは何日歩いてもあきが来ない素晴らしい景色。隊員も荷物は結構担ぎ、高所順応を早める努力をする? マイナスかも
●6/30
アルブルッツイ氷河に(5100m) ベースキャンプが完成。隊員四人のほかは、リエゾンとそのキッチンボーイの二人のみになる。
ポーターは一月後に迎えに来るように契約して帰す。いよいよ、四人だけの無酸素登山、
アルパイン登山を目指す
●6/30BC設営。田辺氏と鈴木用テント。スーパーで2980円で買ったもの。寝袋はこれもスーパーの1980円の夏山キャンプ用。無酸素登頂登山隊??無財産登山隊 ! !
C1への荷揚げ・・・普通はシェルパに頼む
ガッシャブルム氷河をC1へ荷揚げ。氷河は毎日動いていてルートの取り方が難しい。まるで迷路のようで、いつアイスフォールが崩れるか、いつヒドンクレパスに落ちるか、神経が疲れる。
●7/2 C1 5800m
田辺、鈴木用の唯一のまともなテント。しかし、ジャージはスーパーの1000円。靴が小さいので、靴下は一枚のみ。決して真似はしないように。テントはここまで、後はツェルトのみ。
●7/7 C1→C2→BC
大きな荷物を背負いC2への荷揚げ。バテバテでその後三日を休養とる。
高所順応は大分出来てきた。
●7/11 BC →C1
●7/12 C1→C2
C2(6400m)もバナナリッジの上に張る。テントではなくて、ツェルトを張る。クレパス帯は何人も飲み込んでいる恐ろしい所、何処に落とし穴が有るか分からない。細心の注意を。
●7/13 C2→C3→C1
●7/14→BC
C3に荷揚げC3の設営に出かけるが雪が膝上もあり、クレパスだらけ。Fixが100mしかない(持ち上げる力がないので持っていかない)ので、C3予定地まで上がれずに、荷物をデポして帰る。
狭いルート上に遺体があり、どうしても遺体を乗り越えていかないと先へ行けない。
それは出来ないと隊員の一人が言うので、ルートを変更するがザイルがないと通れないルートなので、BCまでザイルを取りに引き返す。
●7/20 BC→C17/21C1→BC
アタック失敗
田辺、鈴木組でアタックに出かけるが。悪天につかまり敗退。
大雪である。ベースキャンプでも50cm近く積もる。田辺、鈴木組の2980円のテントはつぶされる。パラパールで補強する。
●7/23 BC→C1
最後のアタックチャンスである。今まで二人ずつ別々に行動してきたが、日にちがなくなり、遠藤組と一緒にアタックに。テント食料、ザイル等全荷物を背負って出かける。
初めて一緒に行動する。ハイポーターも雇わずに自分たちだけで登る隊は日本では殆ど無くなったね。これがヒマラヤ登山の醍醐味なのにね。
シェルパを雇って、荷揚げやルート工作までして貰って登ったって、まるでツアーで面白くない。
●7/24 C1→C3 6900m
C1~C2は遠藤組がラッセル、ルート工作。C2~C3は鈴木組が担当。
BCで50cmもの積雪である。しんどいのと,雪崩れの恐怖感で疲労困憊である。時間がないのでツェルトのC2は飛ばし、C3(ツェルト)を建設して、泊まる。天気が安定してきた。バルトロカンリがよく見える。
●7/25 C3→C4
いきなり腰のラッセルである。遠藤組と交代で頑張る。一応アルパインスタイルを目指す我々はフィックスザイルが無い。厳しい所では残置のフイックスでもないかと探すが降雪の後でなかなか見つからず、従って緊張させられる
●C4 7400m
遠藤組はテントを持ち上げたが、放置してあったこのテントに潜り込む。鈴木組はC3から撤収したツェルトに入る。少しでも濃い酸素を吸いたくて、夜中は入り口は空けておく。無酸素登頂は過酷である。テントも持たずに来るような登山隊は先ず居ないであろう。
C4から見るガッシャブルムⅢ峰
7/26
頂上手前の雪壁です。無酸素登頂のアタックなのにこの大きなザック
6mm程度の古いフィックスが有る。雪壁は段々に急峻になってくる。最後はダブルアックスで登り切る。
雪壁を登りきるとこんなにきれいなナイフリッジにまたがる。左側は中国側である。ここで諦めるパーティが多いとか。右側の雪壁を越えてきた。6mmの古いフィクスザイルが有り、絶対に負荷を掛けないようにして、ダブルアックスで。怖かった
頂上手前の50mのナイフリッジ。50mで頂上だ
●7/26 やったーガッシャブルムⅡ峰頂上です。
K2も目の前に。カラコルムの山々が360度全て見える。至福の一瞬である。
日本人初の五十歳代の8000m峰無酸素登頂の記録が作られる。48歳で7495mコミュニズム峰登頂の自らの記録を更新したものである。
更に、二年後にはチョー・オュー峰8201mを無酸素登頂して、記録をのばした。
酸素ボンベを使っての登山は、自分の心肺では走れないからと30km以降を自転車で走ってゴールに達するマラソンのようなものと、登頂=完走とは認めていない。登頂とは別のカテゴリーのものである。
頂上一角の窪地でガッシャブルムⅡ峰、52歳無酸素登頂とサインする。
下山
●7/27 C4→C1
コルから。スタカットでC4への下りました。下りは怖く、ながく緊張感を強いる。いっそ飛び降りて一瞬の恐怖感で開放されたいと思うこともある。
お名残惜しい周りの山々
遠藤組はガッシャブルムⅡ峰C4よりパラパウント降りる予定であったが、強風で失敗する
この先が雪壁である。6mm程度の古いロープで懸垂する。この降り口に持も寝たままの遺体がある。多分降りられずに天国に登ったのでしょうか。金髪が風に揺られて動き、今にも起き上がりそうで怖かった。別に座ったままの遺体とか。
●7/28
BCに下山。7/23に下山予定でポーターを頼んであった。C1に入った時に、荷下げように頼んでおいたポーターがBCに到着したとのこと。ボーナスをはずむから我々が登頂して下山してくるまで待ってて貰うように無線で頼む。彼らは寝袋もテントもなく、ブルーシートのみで待っててくれる。
●7/29から下山のキャラバンが始まる。
●8/3にスカルドに到着。K2モーテルで40日ぶりのシャワーを浴びる。ラウルビンディー行きの飛行機を待つが予約が取れず、ワンボックスカーをチャーターして、カラコルムハイウェーを20時間走りっぱなしでイスラマバードに帰る。ガッシャブルムⅡ峰登山は終焉する。
★追記
●隊長の遠藤晴之は、日本人でエベレストを無酸素で登頂した初めての男。
●遠藤由香は日本人女性初の八千メートル峰無酸素登頂。チョー・オユー峰南西壁を山野井妙子とペアで登頂した、日本を代表する女性クライマー。
●田辺治は、K2[西稜から西壁](未踏ルート/8,611mの初登頂をはじめ、カンチェンジュンガ8,568m等の難峰を登り、8000メートル峰の10座目のダウラギリⅠ峰8167mで雪崩にやられる。三人とも日本を代表するクライマーである。
参考 日本人で唯一8000m峰を14座を全て登った唯一の人の記録
竹内洋岳 ガッシャブルムⅡ峰 8035m