無酸素登頂登山家 鈴木孝雄の山登り

高所登山家

●80超えの翁のレンタカー世界一周一人https://yeti.muragon.com

高所登山とは


無酸素こそが高所登山・・・気圧との闘いである 
酸素ボンベを使用しては高所登山にはならない
8000mの高貴な山なのに酸素を吸って6000m台に
値打ちを下げてまで登る意味が何処にある?


ヒマラヤの八千メートル峰の登山のベースキャンプは4000mから5000mに有ります。ここまで歩くこと無しに入れる山もあります。したがって8000mの山なら3000~4000mの標高差を登れば良いのです。御殿場から富士山の頂上に登るのと標高差は大差ないのです。この標高差を一気に駆け登る、冨士登山マラソンが行われるくらいです。
ところが、同じ標高差なのにヒマラヤの高峰は1~2ヶ月もかかります。
何が原因かというと酸素の濃度が違うからです。八千メートルの高度では一歩あるくのに5、6回呼吸しないと動けないくらい苦しいのです。一万メートルの高度を飛んでいる飛行機の中では走ることもできます。飛行機の中は加圧して二千メートル前後の酸素の濃度にして有るからですね。もし、飛行中に加圧装置が故障したとすると乗客は低酸素の為に数分で失神して、そのまま飛行を続ければ死に至ると思われる。
飛行機は酸素マスクを天井から供給しながら急降下することになっています。
五千メートルで酸素は半分、八千メートルの高度では三分の一になるのです。酸素ボンベより酸素を供給し続ければ一万メートルでも二万メートルでも登れるのです。ところが、酸素ボンベを使わないとすると、自分の身体を三分の一の低酸素に順応させなくてはなりません。
基本的にはこの高さには順応できませんが、高度に心肺機能を鍛えて上手に順応させれば1ないし2日くらいは生命を維持できる。マラソンは走り始めて30km位で体内に蓄えられたグリコーゲンが燃え尽きて走れなくなるものです。それを長いトレーニングで体内にエネルギーを蓄えられる身体に鍛え上げて、42.195mを殆ど同じピッチで走りきる体力、気力を養うのです。
高所登山もマラソン選手のように心肺機能と登山技術を磨けば8000m峰の無酸素登山を可能にすることができるものです。


ところが、日本の登山隊においては、ベースキャンプ以上では一切シェルパやポーターを使わずに、自分達だけで、荷揚げやルート工作をしながら、無酸素で日本の山を登るような登り方をする人が、殆ど無くなったのはさみしい限りである。
工事中



出演・メディア

1990年 ガッシャブルムⅡ峰無酸素登頂


中日新聞   1990.2 
ヒマラヤ8000m峰 フワリ空中散歩      
                                                  



 ガッシャブルムⅡ峰8035m    
               中日スポーツ(スポンサー)1990.6  



ガッシャブルムⅡ峰8035m   毎日新聞  1990.8

中日スポーツ


読売新聞




  ガッシャブルムⅡ峰8035m   
毎日新聞 全国紙で両開き全段カラー 1990.8  




俳優の、天野鎮夫&山田昌さんとの対談の記事 
中日スポーツ



中日新聞            1990 8.17

  190


チョー・オュー峰8201m 無酸素登頂 54歳日本人最高齢
読売新聞 1992

毎日新聞


読売新聞、中日新聞



ダウラギリⅠ峰8135m 無酸素登頂に挑戦 62歳 (世界記録に挑戦)
中日新聞 2000.7













    テレビ出演


★ NHKテレビ「ほっとイブニングに出演 」    20分  1990.8                 
    八千メートル峰、ガッシャブルムⅡ峰日本最高齢無酸素登頂について、 柿沼アナ
     ウンサーとの対談で生出演  


★ 東海テレビに出演                     1992.10    
    天ちんの土曜サロン  「人間こんさーと」の対談番組に45分出演
★名古屋テレビ ほっとサンデー生放送出演    45分   1992 10   、   
      
★ダウラギリⅠ峰無酸素登頂登山隊の出発時のインタビュー 2000.8


★NHKテレビ「ほっとイブニング」に出演           2000.8             
 青木由加アナウンサーによる自宅でのインタビュー。
 ダウラギリⅠ峰無酸素登頂・・   
     無酸素登頂世界最高齢を目指す、トレーニング風景の放送。



★NHK夕方の地方ニュースに出演          1999            
 高校生にフリークライミングの指導で、現地からの生中継で放送。


★ 東海ラジオに出演 
  1999
    天ちん、こと天野鎮男氏との対談をする。生放送 15分


★NHKテレビ「北陸スペシャル」に出演   全国ネット 30分 2002.9                 
   「剣岳~岩と雪の殿堂~」に出演

レーニン峰7134m キリギスタン

パミール日本隊 レーニン峰7134m 
隊長 青田 浩   隊員 鈴木孝雄 他2名  1984/7/15~8/14  


        赤の広場


国際キャンプは、モスクワ集合、解散である。二日間観光をする
1984/7/18 BC 3800m モスクワから空路デオーシに入り、アチクタシの国際キャンプ場に軍隊の護衛?陸路で入る

アチクタシの国際キャンプのキャンプ村 


7/21 BC よりC1 4400mまで順応に出掛ける
7/22 C1からC2 5200mに荷揚げする.
7/24~26 BCから C3 6000mまで入り、頂上を目指すも荒天のため引き返す
8/2   BCよりC1に入る。高所順応が進んだせいか楽に入る。
8/3   C1 よりC2 5200mに入る

8/4   C3 6000mに入る


8/4   登頂 7時出発する。高所順応に散々苦しめられた末やっと頂上を手に入れる。頂上は野球場が入るほど広く、レーニンのレリーフがある。下山はC1まで下りる。

レーニン像のプレートが埋め込まれた頂上。
スポンサー提供のテントを頂上に張り、コマーシャル用の写真を


                 タクティクス

ガッシャブルムⅡ峰8035m無酸素登頂 日本人初の五十歳代

イエティー同人ガッシャブルムⅡ峰登山隊 参照 岳人521号 鈴木執筆 山と渓谷1990/11由加執筆
隊長 遠藤晴行(33) 隊員 鈴木孝雄(52) 田辺治(29) 遠藤由加(24)ハイポータ、シェルパレス、完全無酸素隊。
BCにはサーダーとそのコックの二人だけ。
遠藤と由加はナンガパルパット、ガッシャブルムⅠ峰に続き三座目のカラコルム8000m峰、無酸素登頂。今度は無酸素登頂後、頂上からパラグライダーでBCまで滑空する、日本人初の記録を狙う計画。
鈴木は、五十代で日本人初の最高齢無酸素登頂を狙う。田辺は始めての8000mであったが、以後続けて九座も登る、日本を代表するスーパークライマーに成長するも、ダウラギリⅠ峰で逝く。
わが隊はアルパインスタイルを目指し、ポーターはBCキャンプまで頼んだだけで、これ以降は一切頼まずに、荷揚げ、ルート工作、キッチンも全て自分たちの手で行う。
C1は設営したがC2はデポしたのみ。C3、C4は背負って歩く。完全なアルパインスタイルにはならなかったが少しは近づいた。ワンダーのように登頂後続けてブロードピークに転進していれば、完全なアルパインスタイルの可能性もある。


●1990 6/12 成田出発~パキスタン カラチ経由 6/13イスラマバード入り。
●6/20までイスラマバードで登山手続き、日本大使館に挨拶、隊荷の税関手続きと食料等の買い物。田辺とタキシラに遺跡めぐりもする。
●6/21イスラマバード~空路スカルド「K2モーテルへ」。サーダーとキッチンボーイを二人雇う。食料、燃料、コンロ等を買い入れる。ポーターを58人雇う。6/22午後ジープ三台で出発ジョラ橋まで。
●6/23~6/30  バルトロ氷河の長いが楽しいキャラバンが始まる。


        1990/6/13
パキスタン到着。バザールで食料調達をする遠藤由加。


空路スカルドに入り、食料、燃料を調達。サーダーとキッチンボーイを二人雇う。58人のポータを雇いガッシャブルムⅡ峰登山隊のキャラバン開始


浅いが急流で一人では歩けない。


モッコの渡しで川を渡る


バルトロ氷河のキャラバンは何日歩いてもあきが来ない素晴らしい景色。隊員も荷物は結構担ぎ、高所順応を早める努力をする? マイナスかも



●6/30
アルブルッツイ氷河に(5100m) ベースキャンプが完成。隊員四人のほかは、リエゾンとそのキッチンボーイの二人のみになる。
ポーターは一月後に迎えに来るように契約して帰す。いよいよ、四人だけの無酸素登山、
アルパイン登山を目指す


●6/30BC設営。田辺氏と鈴木用テント。スーパーで2980円で買ったもの。寝袋はこれもスーパーの1980円の夏山キャンプ用。無酸素登頂登山隊??無財産登山隊 ! !


C1への荷揚げ・・・普通はシェルパに頼む
ガッシャブルム氷河をC1へ荷揚げ。氷河は毎日動いていてルートの取り方が難しい。まるで迷路のようで、いつアイスフォールが崩れるか、いつヒドンクレパスに落ちるか、神経が疲れる。



●7/2  C1  5800m
田辺、鈴木用の唯一のまともなテント。しかし、ジャージはスーパーの1000円。靴が小さいので、靴下は一枚のみ。決して真似はしないように。テントはここまで、後はツェルトのみ。



●7/7 C1→C2→BC  
大きな荷物を背負いC2への荷揚げ。バテバテでその後三日を休養とる。
高所順応は大分出来てきた。


●7/11 BC →C1   
●7/12 C1→C2
C2(6400m)もバナナリッジの上に張る。テントではなくて、ツェルトを張る。クレパス帯は何人も飲み込んでいる恐ろしい所、何処に落とし穴が有るか分からない。細心の注意を。


 ●7/13 C2→C3→C1  

●7/14→BC 
C3に荷揚げC3の設営に出かけるが雪が膝上もあり、クレパスだらけ。Fixが100mしかない(持ち上げる力がないので持っていかない)ので、C3予定地まで上がれずに、荷物をデポして帰る。
狭いルート上に遺体があり、どうしても遺体を乗り越えていかないと先へ行けない。
それは出来ないと隊員の一人が言うので、ルートを変更するがザイルがないと通れないルートなので、BCまでザイルを取りに引き返す。


●7/20 BC→C17/21C1→BC
アタック失敗
田辺、鈴木組でアタックに出かけるが。悪天につかまり敗退。



大雪である。ベースキャンプでも50cm近く積もる。田辺、鈴木組の2980円のテントはつぶされる。パラパールで補強する。



 ●7/23 BC→C1
最後のアタックチャンスである。今まで二人ずつ別々に行動してきたが、日にちがなくなり、遠藤組と一緒にアタックに。テント食料、ザイル等全荷物を背負って出かける。
初めて一緒に行動する。ハイポーターも雇わずに自分たちだけで登る隊は日本では殆ど無くなったね。これがヒマラヤ登山の醍醐味なのにね。
シェルパを雇って、荷揚げやルート工作までして貰って登ったって、まるでツアーで面白くない。



●7/24 C1→C3 6900m
C1~C2は遠藤組がラッセル、ルート工作。C2~C3は鈴木組が担当。
BCで50cmもの積雪である。しんどいのと,雪崩れの恐怖感で疲労困憊である。時間がないのでツェルトのC2は飛ばし、C3(ツェルト)を建設して、泊まる。天気が安定してきた。バルトロカンリがよく見える。



●7/25 C3→C4   
いきなり腰のラッセルである。遠藤組と交代で頑張る。一応アルパインスタイルを目指す我々はフィックスザイルが無い。厳しい所では残置のフイックスでもないかと探すが降雪の後でなかなか見つからず、従って緊張させられる




●C4 7400m
遠藤組はテントを持ち上げたが、放置してあったこのテントに潜り込む。鈴木組はC3から撤収したツェルトに入る。少しでも濃い酸素を吸いたくて、夜中は入り口は空けておく。無酸素登頂は過酷である。テントも持たずに来るような登山隊は先ず居ないであろう。


C4から見るガッシャブルムⅢ峰




         7/26
頂上手前の雪壁です。無酸素登頂のアタックなのにこの大きなザック



6mm程度の古いフィックスが有る。雪壁は段々に急峻になってくる。最後はダブルアックスで登り切る。



雪壁を登りきるとこんなにきれいなナイフリッジにまたがる。左側は中国側である。ここで諦めるパーティが多いとか。右側の雪壁を越えてきた。6mmの古いフィクスザイルが有り、絶対に負荷を掛けないようにして、ダブルアックスで。怖かった



頂上手前の50mのナイフリッジ。50mで頂上だ



●7/26 やったーガッシャブルムⅡ峰頂上です。
K2も目の前に。カラコルムの山々が360度全て見える。至福の一瞬である。


日本人初の五十歳代の8000m峰無酸素登頂の記録が作られる。48歳で7495mコミュニズム峰登頂の自らの記録を更新したものである。
更に、二年後にはチョー・オュー峰8201mを無酸素登頂して、記録をのばした。
酸素ボンベを使っての登山は、自分の心肺では走れないからと30km以降を自転車で走ってゴールに達するマラソンのようなものと、登頂=完走とは認めていない。登頂とは別のカテゴリーのものである。




頂上一角の窪地でガッシャブルムⅡ峰、52歳無酸素登頂とサインする。



    下山 
●7/27  C4→C1
コルから。スタカットでC4への下りました。下りは怖く、ながく緊張感を強いる。いっそ飛び降りて一瞬の恐怖感で開放されたいと思うこともある。


お名残惜しい周りの山々



遠藤組はガッシャブルムⅡ峰C4よりパラパウント降りる予定であったが、強風で失敗する



この先が雪壁である。6mm程度の古いロープで懸垂する。この降り口に持も寝たままの遺体がある。多分降りられずに天国に登ったのでしょうか。金髪が風に揺られて動き、今にも起き上がりそうで怖かった。別に座ったままの遺体とか。
●7/28
BCに下山。7/23に下山予定でポーターを頼んであった。C1に入った時に、荷下げように頼んでおいたポーターがBCに到着したとのこと。ボーナスをはずむから我々が登頂して下山してくるまで待ってて貰うように無線で頼む。彼らは寝袋もテントもなく、ブルーシートのみで待っててくれる。
●7/29から下山のキャラバンが始まる。
●8/3にスカルドに到着。K2モーテルで40日ぶりのシャワーを浴びる。ラウルビンディー行きの飛行機を待つが予約が取れず、ワンボックスカーをチャーターして、カラコルムハイウェーを20時間走りっぱなしでイスラマバードに帰る。ガッシャブルムⅡ峰登山は終焉する。


★追記
●隊長の遠藤晴之は、日本人でエベレストを無酸素で登頂した初めての男。
●遠藤由香は日本人女性初の八千メートル峰無酸素登頂。チョー・オユー峰南西壁を山野井妙子とペアで登頂した、日本を代表する女性クライマー。
●田辺治は、K2[西稜から西壁](未踏ルート/8,611mの初登頂をはじめ、カンチェンジュンガ8,568m等の難峰を登り、8000メートル峰の10座目のダウラギリⅠ峰8167mで雪崩にやられる。三人とも日本を代表するクライマーである。


参考 日本人で唯一8000m峰を14座を全て登った唯一の人の記録

竹内洋岳 ガッシャブルムⅡ峰 8035m